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潜入取材/インタビュー

伝統を誇る中央大学映画科

※初出2001年4月発刊「韓国エンターテイメント三昧vol.2」(芳賀書店)その後改訂して2004年7月発刊「韓国はドラマチック2」(東洋経済新報社)に掲載  記事の転載禁止

韓国の監督やスターのプロフィールを調べていると、
その多くが演劇映画学科出身である。

韓国の演劇映画学科の歴史をひもとけば、
中央大学の演劇映画学科が作られたのが1956年。
続いて1年遅れで東国大学、漢陽大学にも設けられるようになった。

演劇映画学科のある大学としては、
70年代はこの3大学とソウル芸術専門学校を合わせた
4つしかなかったが、80年代は10校になり、
90年代末で40校にまで増えたという。

こうした各大学の演劇映画科の他に、
1984年には映画振興公社の付属教育機関として
韓国映画アカデミーが誕生し、更に国立芸術総合学校と、
韓国において映画人の養成機関としてあげられるのはこの3種類だという。

人口約4500万人の韓国ではけっこうな数だ。
少なくとも日本に比べたら格段に多い。
今の韓国映画界の活況はこういう下地があってこそではなかろうか。

と言うわけで、韓国の演劇映画科の中でも最も伝統を誇る
中央大学映画科のイ・チュンジク教授に話を聞いた。
(2000年10月のインタビューより)

中央大学演劇映画科からは『シュリ』のカン・ジェギュを始め、
『豚が井戸に落ちた日』、『オースジョン!』のホン・サンス、
『燃ゆる月』のパク・チェヒョンらの監督のほか、
パク・チュンフン、キム・ソックン、コ・ソヨン、キム・ヒソン
といった俳優らが輩出されている。
現在はイム・チャンジョンやイ・ジョンヒョンらが
監督の勉強をする映画科の方に在学中である。
(注:昔は演劇映画学科だったが、1989年に分離されて、
今は演劇学科と映画学科に分かれている)。

1977年に同大学に入学したイ・チュンジク教授のように、
映画科で教えている教授たちは、
映画界の第1線で活躍している映画人たちとは一緒に学んだ同級生世代である。
そんな隔たりのない関係なので、学生が書いた良いシナリオがあると、
電話1本で「いいシナリオがあるよ」と伝えたり、焼酎を飲みながら、
今度こういうのはどうかなとラフに語り合える雰囲気なのだという。

このように実際の映画制作現場と大学との距離がとても近いというのが、
映画界のエネルギーになっている気がする。

「今韓国映画界で活躍している30代半ばの世代の監督たちは、大学時代に映画について専門的な教育を受けて現場に出るようになった世代なんです。つまり、専門的教育を受けた人材たちが映画を作り始めた初めての世代だといえると思います。もちろんその前にも56年から演劇映画科はあったわけですが、演劇映画学科の中で、最初はみんな演劇の方を、つまり演技を勉強している人が多かったのです。それが70年代後半から映画のほうを勉強する人が急激に増えました。その頃勉強していたのが、カン・ジェギュ監督を始めとした、今の30代後半に当たる人達なんです」


――90年代に入って一気に世代交代しましたね。

「大きな流れでいうと大学や専門機関で映画を専門的に勉強していたグループと、学校などではなく、80年代初めから独自にインディペンデントを撮ってきていたようなチャン・ギルス監督(『銀馬将軍は来なかった』『私は望む、私に禁じられたことを』『失楽園』)だったりパク・クワァンス監督(『チルスとマンス』『美しき青年、チョン・テイル』『イ・ジェスの乱』)といった人達がいて、こういった人材たちが90年代半ばにかけて合流し、映画の人的資源がそこで花開いたんです。それまでの伝統的な映画製作システムに取って代わったわけなんです」

――映画界が大きく変わったのには何かきっかけがあったのですか?

「一つには若い制作者や監督が忠武路(映画関係の会社が集まる街の名前で、俗に映画業界のことを指す)を飛び出して成功できたというのが大きいですね。もちろん才能のある人達だったから当然の結果だったのですが、当時はこういう若い人達が自分たちで映画を作ったり制作するのはものすごく厳しい状況だったわけで、会社を辞めてお金を持ち寄って映画を作るというのはものすごく冒険だったんです。そういう大変な状況の中で、実際に90年代にはカン・ウソク監督が自分の映画(『ミスターマンマ』)でも成功し、制作者としても『トゥーカップス』を成功させました。あとは、シンシネという制作会社も、それぞれ既存の会社を辞めた人達が作った会社で、『結婚物語』を成功に導いた。カン・ジェギュ監督もデビュー作『銀杏の木の寝台』で成功して自分で新しく会社を作って2作目の『シュリ』でも大成功させた。ミョンフィルムというところも会社を辞めて自分たちで独立して『接続』などを世に出した。こうして自然と投資家たちの資本が、成功している若い人達のところに流れていくようになり自然と世代交代が行われて行ったんです」


――大学ではどんなことを教えているのですか?

「韓国の場合、70年代は理論が6なら実技は4だったのですが、80年代になって5対5になり、90年代に入って理論が4で実技が6に逆転しました。学部の学生を見ても理論を学びたいというのは10%ぐらいで、あとは制作を勉強したがっている。だからもう3対7になりつつありますね」


――どんなカリキュラムになっているのですか?

「日本大学の芸術学部を見学したことがあるのですが、日本の授業を見て感じたのは、すごく形式的だなということです。編集室に40台の編集機があって、そこに40人が一人ずつ座って一斉に講義を受けていた。それはあまり効率的ではないなと思いました。

韓国ではそんなに機材もないからできないということもありますが、中央大学の教育カリキュラムを簡単に説明すると、1年の1学期には当然理論もやりますが最初は課題としてスチール写真を使って5カットぐらいでストーリーを作ります。2学期にはビデオを使って簡単なものを撮るようにします。2年の1学期にはもう少し完成度の高いビデオ作品の制作。2学期に簡単なフィルムのものを撮ってみます。3年の1学期に5分から10分ぐらいの完成されたフィルム作品を撮ります。3年は2学期から4年の2学期までは卒業作品を撮ります。

他の大学もだいたいこんな感じだと思います。卒業制作は一人でやっても構わないが、だいたいは4,5人でチームを組んでやることが多いですね。15分ぐらいが基準です。学生によっては30分という人もいますよ」

――卒業後はどんなルートで監督になるのですか?

「昔は、大学を卒業したら忠武路に行って助監督時代を10年ぐらいやって、やっと監督になれたんです。でも、今ではすごく多様なルートがあります。

今まで通り、助監督を経る人もいますが、この場合も期間が3年から5年と、その過程も短くなってきてますし、卒業作品が認められてすぐ監督デビューする人もいるし、独自に撮った短編映画が評価されてという道もあります。

既存の忠武路のシステムが大きく変わったことによって、才能がある人を発掘できるルートが広くなった。才能さえあれば、制作者はスカウトしてくるから、ほんとに多様になってきてますよ」

――大学に入るための試験システムは?どんな方法で選抜されるのか?

「国立芸術総合学校は国の文化観光部の傘下に有る機関なので、自立的なものが与えられていて1か月に渡って試験を行ったりします。学校によってシステムは全然違いますが、中央大学の場合は高校の成績だけで決めます」


――それだけなんですか?適性とか、才能がありそうとか、そういうものでは選ばないんですね?

「ほんとに成績だけです。面接もしません。以前は面接もしてましたが、一人に与えられる時間はほんの3分程度なんです。そんな短い時間で才能があるかどうか評価するなんて不可能な話だから、成績で選んじゃった方がいいじゃないかということになりました。

結果的に見ると、映画に携わる人達は、いろんな困難を乗り越えていけるだけのエネルギーも必要になってきますので、成績だけだと、そういうものに欠けているような気がします。

そのかわり、映画科は成績でいうと、中央大学の中で2番目ぐらいに点数が高いんです。全校の学生の主席も映画科から出てきたりしているんですよ。頭のいい学生がたくさん入ってきているおかげで、それだけ映画に対する理解も早いです。一長一短ですね。

才能もエネルギーも両方ある人を取りたいのは山々ですが、現在の韓国の大学入試システムでは、選択の余地がないです。大学にある程度自立権が認められるようになれば、そういう方向に持っていきたいと考えています」

――今の生徒数は?

「演劇科と映画科それぞれ1学年35人ずつです」

――競争率は?

「映画学科は7~10倍。演劇科は演技志望生が多いから20倍近くいってます」

――1学年35人のうち何人ぐらいが実際に監督になるんですか?

「3人出れば大成功でしょう。あとは、映画プロダクションや広告担当になったりするケースが多いです」

――教え子たちとのどんなエピソードが印象に残っていますか?

「『燃ゆる月』のパク・チェヒョン監督は、学生時代は学生が撮る作品にしてはすごく感覚的で、これで長続きするのかなと思っていたけど、意外と頑張っているという感じです。

イ・ジョンヒョンは1年の時、歌手デビューする前はすごくまじめでいい学生だったんですが、歌手デビューしてからは全く出てこなくなって印象を思い出すすべもないですね(笑)。でもフランスに研修旅行に行ったときに普段は眠そうにして何も関心なさそうなのに、自分が関心あることを見つけると、眼に光が宿ったようになってがらっと変わって……、それは良く覚えています。面白いところのある子でしたよ。

イム・チャンジョンは本来もっと豊かな才能の持ち主なのに、歌手は韓国では商品として扱われてしまうので残念に思っています」

――それにしても、芸能人でもみんな当然のように大学に行きますよね。ある程度有名な俳優でも更に大学院に通ったりして、韓国の芸能人は向学心が旺盛だと感じるのですが。

「それは韓国的なものじゃないでしょうかね。韓国は学閥社会ですし、学校に所属している安定感もあるでしょうし。以前は学校ごとにカラーがあって、10年前までは学校に入ってそこから育ったという人達が確実に多かったんです。例えば、キム・ヒソンやコ・ソヨン、パク・チュンフンもそうです。

けれど、今は各大学が競って広報効果を狙ってスターたちを誘致するんですね。高校生で既にアイドルになっている、例えばH.O.Tのようなアイドルたちがいろんな演劇映画科に入っても意味が無いというか、既に出来上がったアイドルたちが入ることで、大学の伝統の中で学んで巣立っていくということが失われつつあるんですよ。

そういうことが韓国のエンターテイメント産業に良くない影響を与えなければいいなとちょっと心配しています」